明治日本の産業革命と長崎の近代化遺産
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「外国の脅威から日本を守る」という想いが近代化の原動力だった。イギリスの技術を日本にもたらしたトーマス・ブレーク・グラバー 危機感を募らせた諸藩の志士たちは蘭学書を片手に西洋科学へと挑戦していきます。鹿児島や萩では、産業に欠かせない鉄づくりのための反射炉が作られるなど、各地で様々な試行錯誤が続けられます。1853年の黒船来航後、海防の強化のため江戸幕府は西洋式軍艦の輸入を決定、1855年には士官を養成する長崎海軍伝習所を設立し、のちに活躍する多くの志士を育てます。 1861年には日本初の本格的な洋式工場「長崎製鐡所」を完成させました。数年前まで紙やすりでねじ山を削っていた職人は、オランダから取り寄せた工場のねじ切り盤や工作機械の職工として、西洋技術を習得、日本重工業の礎を築きました。 1840年に起こったアヘン戦争での清の敗戦は、いち早く幕末の日本にも伝えられ、大きな衝撃を与えました。 「海を自由に走る蒸気船と遠くからでも撃てる大砲を持ち、大国清でも勝てない相手なら日本はひとたまりもない」という強い危機感が生まれます。 さらにアヘン戦争後に書かれた中国・魏源の「海国図志(中国・西洋の地図・歴史・西洋の技術等を解説した書)」が日本に伝えられると、日本国内の各藩に強い危機感と、改革の機運が一層広がっていきます。 この出来事は幕末に活躍する吉田松陰、佐久間象山、勝海舟、坂本龍馬等志士達にも多大な影響を与えたと言われており、この時代から日本の近代化は急速に加速していきます。 蘭学書といった参考書だけをたよりに産業化へと挑戦しつづけていた武士たちに、強い味方が現れます。1859年の開港と同時に長崎にやってきたスコットランド出身の貿易商トーマス・ブレーク・グラバーです。まだ21歳という若さでしたが、商人としての才能に恵まれ、23歳でグラバー商会を立ち上げています。今、旧グラバー住宅としてグラバー園に残る木造洋風住宅は、彼の自宅兼事務所として1863年に建てられました。船舶の往来や、目の前の長崎製鐡所が見渡せるこの場所には、多くの外国人が訪れ、また近代化を目指す武士たちにおいても、最新の技術情報を得ることができる重要な場所になっていきます。長崎製鉄所風景図(長崎歴史文化博物館所蔵)長崎海軍伝習所跡地揺れる幕末。その中でたゆまぬ技術の導入が進められた。〈長州ファイブ〉後列左から遠藤謹助、井上勝、伊藤博文前列左から井上馨、山尾庸三若き日のグラバー(長崎大学附属図書館所蔵)イギリスの科学技術と外国人技術者の直接導入 グラバーは、留学から帰ってきた薩摩藩士たちと合弁事業を立ち上げ、日本で初めて蒸気を動力としたスリップドックである「小菅修船場」を建造しています。この事業には機械類をイギリスから直接輸入するという大きな投資をしています。 また、薩摩藩が目指していた近代的な紡績工場の建設にも、イギリスから技師を呼び寄せるなど、技術の直接的な導入も行っています。さらに高島炭坑の開発には、佐賀藩と協力、英国人技師モーリスを雇い、日本で初めてとなる蒸気を動力とした捲き揚げ機を使用。効率的で大規模な採炭を成功させました。つまり、試行錯誤の状態から本格的な技術をイギリスから直接導入させたグラバーの行動は、日本の近代化を加速させた大きな要因となったのです。日本はなぜ近代化を必要としたか?

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