明治日本の産業革命と長崎の近代化遺産
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長崎港を見下ろすグラバー住宅に展示された砲台(1860年代)(長崎大学附属図書館所蔵)わずか半世紀で世界ランクに仲間入りを果たした日本の産業 ロンドンに留学した長州ファイブは明治政府の中で活躍しています。伊藤博文は44歳の若さで初代内閣総理大臣になり、産業の発展と新しい国づくりに尽力しました。井上馨は初代外務大臣に就任。山尾庸三は明治政府の工部卿に、井 蒸気船の普及により、石炭の需要が高まる中、「高島炭坑」が誕生します。その優れた技術は、端島炭坑(軍艦島)、そして三池炭鉱へと広まり、近代的な炭坑が次々と造られていきます。 鉄鋼業においても、1901年、官営八幡製鐵所において欧米に匹敵する規模の高炉に火が入り、操業が開始されます。 造船業では1884年、長崎製鐵所が三菱の経営となり長崎造船所と改名、着実に発展していきます。 そして1898年、三菱合資会社三菱造船所は、日本で初めて6,000トンを超える大型貨客船「常陸丸」を建造。保険の対象になる船舶を検査する英国ロイド船級協会によって、初めて船級を付与されました。 日本で初めて蒸気船が建造されてからわずか50年で、日本は欧米列強に肩を並べる造船大国となったのです。上勝は鉄道庁長官として鉄道事業を発展させました。遠藤謹助はグラバーが手助けした造幣局に務め、造幣局長にまで上りつめています。日本を守り、新しい日本を建国していった素晴らしい人材を育成したのは、まさにグラバー。彼がいたからこそ、急速な日本の近代化があったと言えるのかもしれません。ロンドン留学生の活躍倉場写真集 高島炭坑~オツルさん(長崎歴史文化博物館所蔵)日本で初めてロイド船級を付与された常陸丸官営八幡製鐵所旧本事務所端島炭坑(軍艦島)武士の国から産業国家へ。奇跡の転生の道標 生糸やお茶の輸出などを中心にビジネスをしていたグラバーでしたが、薩摩藩から注文された船の斡旋を機に、西南雄藩と艦船や武器の貿易を始めています。ここから、グラバーと藩士との強い繋がりが生まれてきます。 また、世界の産業技術を知りたいと切望していた藩士たちのイギリス留学を手助けします。 1863年には、長州藩士である伊藤博文、井上馨、山尾庸三、遠藤謹助、井上勝の五人(長州ファイブ)を横浜からロンドンへ。さらに1865年には、薩摩藩士である五代友厚、寺島宗則、森有礼ら19人(薩摩スチューデント)を渡航させています。彼らは世界をリードしていたイギリスの産業を直接学び、その優れた技術を手にして日本に戻ってきます。そして彼らこそが、日本の近代化を先導する重要な人物となっていくのです。藩士たちをロンドンへ人材育成が近代化を加速させた。いのうえかおるごだい ともあつやまおようぞうえんどうきんすけいのうえまさるてらしまむねのりもりありのりひたちまる

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